そこで暮らす誰もが快適と思える“空間”をデザインしたい
「28歳のときに、当時アメリカで注目を集めていた環境デザインを学ぶため渡米しました。その後、サウジアラビアで教職についたりしながら、30年ほど海外で暮らしましたね」
ちなみに、渡米より数年前の大学院卒業後には、インドに渡り、大学の講師として建築設計を教えた経験をもつ白井さん。海外旅行でさえ簡単でなかった60年代。その思い切った決断と行動力はすごい。
「昔から、建物そのものより建物と建物の間の“空間”に興味があったんです。建物ができると、その周りの環境にも影響するでしょう。僕はそこに暮らす人々すべてが快適に過ごせる空間作りがしたかった。そして、封建的で保守的だった当時の日本から出たいという思いもありました。何と言うか、自由でいたかったんでしょうね(笑)」
自由を愛し、自らを“建築浪人”と呼ぶ白井さんは、2年おきに設計事務所を転々としながら、アメリカ中のさまざまな都市計画に関わったのだとか。
「最も思い入れがあるのは、ロサンゼルス郊外のアーバインの都市開発計画にゼロから携わったことですね。何もない大地に一から街を築いていく興奮は、たとえるなら真っ白なキャンバスを前にした画家の気持ちに近いかもしれません。」


ロサンゼルス オレンジ郡 「The Village」
そのアーバインは、今や“アメリカで最も安全な都市の一つ”として人気の高い街だ。後に、日本の建築家の仲間たちが彼の仕事と知らずにアーバインを褒めるのを聞き、照れたこともしばしばだったとか……。そんな白井さんの元に、ある日、運命的ともいえる出会いが訪れる。
「サンフランシスコの事務所で働いていたとき、上司に“日本からお客が来てるから挨拶してこい”と言われたんです。そのお客というのが現・森ビル(株)社長の森稔氏でした」
当時、建設が進んでいたアークヒルズの外構デザインを任せる建築家を捜しに来たという森氏に、白井さんはこれまでの仕事について簡単に説明したという。すると2週間後、突然一通の電報が届く。
「森氏から『すぐ帰国するように』という電報と、ファーストクラスのチケットが入った速達郵便がいきなり送られてきたんです。とりあえず急いで帰国して成田空港に降りたら、なんとリムジンが待っていた(笑)。これはとんでもないことになったぞ、と思いましたね」
与えられた期日は、たったの2週間。彼は仕事場として与えられた森ビルのワンフロアに籠り、ひたすら図面を引いたという。そうして完成したのが、美しく弧を描く滝が印象的な“水と光のエクステリア”だ。
「じつは、あの滝はかなり手作り感覚なんです。滝底に敷き詰めた石は、私たちが多摩川の河原にわざわざ足を運んで拾ってきたものなんですよ(笑)」
アメリカで最先端の環境デザインに携わってきた彼の仕事ぶりに、当時の森ビル(株)社長・森泰吉郎氏もご満悦だったとか。そして白井さんは、このアークヒルズの仕事がきっかけとなって、1997年にアメリカから帰国。今は会社での業務をこなすかたわら、インドの遺跡をCADで再現するという趣味にハマっているのだそう。それにしても、なぜ“インドの遺跡”…?と、この続きは、「理想建築研究所 インド×遺跡×空間」にて。
※記事中のデータ、人物の所属・役職は掲載当時のものです。
[了]
« コーデノロジスト 荒川修作氏 | 踊絵師 神田サオリ氏 »
人々の記憶に残る建物を創ろう!設計(意匠・設備・構造)の仕事
プロフィール しらいじゅんじ。1938年東京都生まれ。早稲田大学大学院を修了後、24歳でインドに渡り、1年間大学の講師を務める。日本に帰国後、28歳で渡米。環境プランナー、ローレンス・ハルブリンの元で環境デザインを学び、ロス郊外・アーバインの都市計画などに携わる。80年代に入ってからは、日本国内の仕事も手がけるようになり、アークヒルズの外構デザインや御殿山ヒルズのランドスケープデザインなどを担当。また、1982年より2年間、サウジアラビア国立工科大学で教壇に立つなど活動は多岐に渡る。現在は日本で、森ビル都市企画(株)の参与を務める。また、国内A級ライセンスを持つほどの車好きで、1960年代には一時期クルマ専門誌「カーグラフィック」誌の編集長代理を務めたこともあるのだとか。
アークヒルズ(東京・赤坂)。構想段階から20年近くの歳月をかけ1986年3月に竣工
民間における都市再開発事業としては日本初のビックプロジェクトだった
白井さんがデザインを手がけた「水と光のエクステリア」
滝の周辺にはアークガーデンと呼ばれる緑あふれる庭園が点在