当時の自民党は安倍晋太郎氏、竹下登氏、宮沢喜一氏が“ポスト中曽根”を争っていた時代。
県議になった1972年当時は、田中角栄氏の絶頂期。三重県選出で中曽根派の藤波孝生氏が元気な頃で「北川、中曽根派に来い」と誘われましたが、政治家として金権腐敗に危機感を持っていた自分は、当時の清和会は自民党反主流の象徴だった清和会(当時の安倍派、現町村派)へ。
衆議院に立候補したのは中曽根内閣(1982〜87年)の頃。この時は、衆議院で解散を半年に延ばしたんです。そうしたら、地元三重県で現職の木村俊夫議員が亡くなってしまった。三重1区は五人区で自民党の公認は3人ですべて決まっていたのですが、木村氏が亡くなって後釜として公認がもらえたんです。
政治改革の旗手へ──
国会議員になって驚いたのは、朝から晩まで勉強の連続だということ。驚くほどみんな勉強していましたね。しかも何かにつけてマスコミがついてくる。スケールも大きく、それはもうカルチャーショックでしたよ。
自分自身もよく勉強しました。この頃は、政治全体の仕組みをかえるべきではないかと思い、必死でしたから。70年代末から80年代初めに田中氏が失脚し、逮捕。80年代は竹下登が絶頂期を迎え、売上税問題であえなく失脚。90年代初めには絶頂期だった金丸信が失脚。国民の政治不信、変革への期待をひしひしと感じていました。自分自身も80年代後半からその必要性を痛感し、構造論に没頭していました。
日本の政治の構造的な問題はどこにあるか。それは選挙制度、当時の中選挙区制度だったんですね。中選挙区制度では、ひとつの選挙区から同じ政党の人間が複数立候補できる。この制度では政党の違い、主義主張の違いというよりも、有権者に対するサービスの度合いが票に反映されてしまう。つまりサービス合戦の選挙になるということです。
選挙をサービス合戦から政策合戦に変えたい。サービス合戦とはまさにタックス・イーターの視点。これをタックス・ペイヤーの視点に変える。それには政党単位で選挙を争うことができる小選挙区制度に変える必要がある。選挙制度改革こそが政治改革だと確信を持ち、中選挙区制を小選挙区制に変えようと運動にのめり込んでいきました。
もうひとつの改革の柱は、地方分権です。民主主義の基本である三権分立をしっかりさせたいという思いも強くなっていました。
確かに、この国は形式上には三権分立になっていますが、実際は官僚主導国家。立法も行政も、司法さえも官僚が主体。地方分権や裁判員制度というのは三権分立確立のためのものですから、地方分権で民主導の自治に変革し、裁判員制度の導入で民主導の司法制度に変えることができるはずだと思ったのです。 (次回「離党、そして三重県知事へ」に続く)
北川正恭(きたがわ・まさやす) 1944年生まれ。1967年早稲田大学第一商学部卒業。1972年三重県議会議員当選(3期連続)、1983年衆議院議員当選(4期連続)。任期中、文部政務次官を務める。1995年、三重県知事当選(2期連続)。「生活者起点」を掲げ、ゼロベースで事業を評価し、改革を進める「事業評価システム」や情報公開を積極的に進め、地方分権の旗手として活動。達成目標、手段、財源を住民に約束する「マニフェスト」を提言。2期務め、2003年4月に退任。2008年3月「地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合」(せんたく)を立ち上げ代表に就任。
現在、早稲田大学大学院公共経営研究科教授、「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)代表。
北川正恭オフィシャルウェブサイト http://www.office-kitagawa.jp/
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※記事中のデータ、人物の所属・役職は掲載当時のものです。
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報道番組のコメンテーターや一般誌のコラムなど、メディアでもおなじみの北川氏。インタビュー第一回では、彼が拓いてきた“改革の道”の序章ともなる議員時代の足跡をたどる。
三重県議会議員を3期連続で務めた後、1983年に衆議院議員に初当選。活躍の場を国政の場に移し、政治改革に向けた第一歩を歩み始める。
政治一家の中で生まれ育ち、政治を身近なものとして感じていた北川氏。とはいえ、国会議員になりたての頃はカルチャーショックの連続だった語る。
文部政務次官を務めた後、知事として再び三重県へ──。県知事時代の8年間から現在まで、北川氏が守り続ける“美学”とは。インタビュー第2回でたっぷりお届けする。