2008年10月3日
オーガニックテーブル株式会社 代表
善養寺 幸子氏
環境と共生した社会づくりに取り組む善養寺幸子氏。2004年に当時の小池百合子環境大臣の呼びかけで発足した環境ビジネスウィメンの第1期メンバーであり、現在、団体の事務局長も担うなど、いまや環境建築のオピニオンリーダー的存在となった氏のインタビューをお届け。第1回は、建築家を志した経緯から『オーガニックテーブル』立ち上げまで。エリート街道とは全く無縁だったというその素顔に迫ります。
取材・構成/東山英一郎(日刊建設工業新聞社)
中学生の時、子供部屋を増築した。注文とあまりにかけ離れたダサイ部屋に愕然とした。ファッションデザイナーに憧れていた少女の心に「自分が大工になって、みんなが喜ぶセンスの良い家をつくってあげたい」という気持ちが芽生えた。
中学生の時、子供部屋を増築してもらったのですが、できあがった部屋は注文したイメージとかけ離れたダサイ部屋。愕然としました。発注した建材を間違えているのにそのまま施工されて、親は文句もいえず泣き寝入り。大工さんのセンスが悪いんでしょうけど、それにしても酷い。『こんな辛い思いして、泣き寝入りしている人たちがいっぱいいるんだろう。自分が大工になって、みんなが喜ぶセンスの良い家をつくってあげたい』という気持ちが芽生えました。当時、建築家なんて存在を知りませんし、建物は大工が設計して施工するものと思っていました。
幼いころからファッションデザイナーに憧れ、お絵描きしたり洋服やアクセサリーを作ったりのインドア少女で、運動は大の苦手。建築を作りたくて大工になりたいと思っては見たものの、重たい柱や梁を担ぐなんて絶対無理!と大工を断念。中学卒業後はジュエリーの勉強でもするかと都立工芸高校の金属工芸科に進みました。高校3年生になって“建築士”という国家資格があることを知りました。高度な技術知識で素人の要望に応えてデザインをしてあげる。そんな素晴らしいサービス業があることに感激して、建築士になりたいと先生に進路相談をしましたが、うちの高校では数学Iまでしかやりませんから国公立大学の工学部への進学は無理だろうといわれ、親からは経済的に私大も専門学校もNGといわれ、結局この時も建築の道はあきらめました。就職する気にもなれず、このまま金属工芸を続けるかと数学のあまり関係ない国立東京芸術大学の工芸科を受験したものの不合格。バイトをしながら浪人することにしました。
浪人生活は1年で終了。善養寺さんは、大手ディスプレー会社の関連会社で働き口を得て、そこで職業訓練校の存在を知る。職業訓練校で建築製図を学び、構造設計事務所に就職する。
高校卒業後1年間、昼間は簡単なバイトをして、夜は予備校に通う浪人生活をしました。予備校での成績は割と良かったんですけど、実技試験って水物で、結局、また失敗。かなり凹みました。浪人何年していても意味がないと思い、取りあえず、デザインとかできる仕事に就きたいと、先輩のつてを頼って、大手ディスプレー会社の中の人材派遣会社に勤めることにしました。折しもバブル前夜の博覧会ブームの頃で、すごい活気づいていました。たった1年間の勤務でしたが、24時間営業状態の職場で普通の倍以上働きましたから、すごくたくさんのことを経験しました。その職場で、先輩から職業訓練校なる無料で通える公立の専門学校があることを教わり、今度こそ建築の道が開けた思いで、東京都立品川高等職業技術専門校(現東京都立城南職業能力開発センター)の夜間の建築製図科へ入りました。
しかし、昼間働き、夜間学校で勉強するのは楽しいのだけど眠い。特に構造力学の時間が起きているのがやっとで理解までいたらないわけです。建築士というエンジニアを目指しているのに居眠りしてしまう自分が情けないし、意匠設計をするには構造力学が不可欠だと信じきっていたので、これは職場で学ぶしかない!と、卒業後は構造設計事務所に就職を希望。同級生の知人の事務所へ無理をいって、当時のファストフード並みの時給500円でお茶汲みとして入れてもらいました。3日くらいはお茶汲みしましたが、「図面描けます。構造設計したいです」と、しつこくお願いし、小さな事務所だったので実働要員として仕事を教えてもらいました。初めて構造設計の仕事を手伝わせてもらったのは、偶然ですが、品川高等職業技術専門校の建替えでした。
ディスプレー会社の時もそうでしたが、経済的な理由で学校を断念してきましたから、お金もらって勉強できる環境に身を置けることがすごく幸せでした。
特にラッキーだったのは、構造設計事務所の所長さんが男尊女卑的な古い考えの方で、華やかな大型物件は男性に、女の私には住宅など小さくて地味な仕事が主に与えられ、結果として短い間に数をこなすこととなり、多様な構造設計に詳しくなることができました。二級建築士の資格も取得し、実績をPRして時給も2500円にしてもらいました。勤めて3年目を過ぎた頃、バブルが弾け仕事が激減、これを機に意匠設計に転向しようと取引先の紹介で転職しました。
意匠設計に転向したものの水があわなくて、1年足らずで退社。再就職活動中に、施主の依頼で二級建築士事務所を開設。子育てしながらマイペースに仕事を続けることに。
ところが、建築家先生絶対のアトリエ事務所は水があわず、勤めたのは1年足らず。その間にやった仕事は二つ、アパートの実施設計と別荘の計画でした。その別荘の施主が再就職活動中だった私を捜し出し、別荘の設計の依頼をしてきたのです。勉強させていただきますと引き受けました。別荘が完成して、また再就職活動を始めたころ、隣人の実家が建替えたいので頼みたいと。別荘は山の中で確認申請は不要でしたが、今度は東京なので確認申請が必要となり、この住宅のためだけに二級建築士事務所の登録をして引き受けることにしたのです。ですから、二級建築士事務所の開設は適当な始まりで、事務所登録の際「ここへ名前を書いてください」といわれ、事務所名を書く欄に自分の名前をフルネームでサインしてしまい、指摘されて慌てて名前の後ろに“設計事務所”と書き加え、事務所名にしてしまったのでした。はからずも有名建築家みたいにフルネームを冠した旧姓の綱島幸子設計事務所の始まりでした。 (次のページへ)
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※記事中のデータ、人物の所属・役職は掲載当時のものです。
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